203高地(にひゃくさんこうち、にいまるさんこうち)は、大連市旅順口区にある海抜203m(本当は200m?)の低い山です。
1904 - 1905年の日露戦争ではロシア海軍の基地のあった旅順港を巡り、日露の争奪戦による激戦地となった場所です。
司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」でも有名となった日本人に人気の大連・旅順の名所のひとつです。
2015年5月30日に行ってきました。
旅順口区「新紀元大酒店」に宿泊。(新紀元大酒店についてはコチラ⇒大連市旅順口区 新紀元大酒店に泊まってきました - リアル!中国大陸記)
旅順の朝は、鳥の鳴き声で起きます。 旅順の新市街は木々が多くて人口も少なくて自然がいっぱい!いろんな種類の鳥がいます。
初日からずっと濃霧&小雨でしたが(さすが自然の要塞)、この日は朝からめちゃめちゃいい天気!絶好の203高地日和です。
203高地へはホテルからタクシーをチャーターして行くことに。
予算やタクシーを呼んでもらう為にフロントに相談。フロントのお姉さんがタクシー会社に電話してくれて値段交渉もしてくれました。
タクシー代金は、ホテル往復と現地で1時間待っていてもらうので80元でした。あらかじめ値段交渉しているので、運転手さんにはその値段を渡せばいいだけ。本当に助かりました!フロントのお姉さんに感謝v
ホテルから203高地へは20分ほどで到着。
「二〇三景区」の入場ゲートで駐車場代(10元)と入場料(1人30元)を支払います。
自家用車の駐車場は山の8合目くらいにあって、それより上は徒歩移動となります。山頂にトイレはないので駐車場で済ませておきます。
まあまあの坂道です(車椅子や足腰の弱い方は有料で山頂までの送迎車がでていますので利用しましょう)。
美味しい空気を吸い込みながら、鳥のさえずりを聞いて、楽しいハイキング~♪・・・と何も考えずに歩いてしまうのですが。ちょっと待った!ここは110年前は弾丸と砲弾と血肉が飛んだ激戦の地です。
ロシア軍からこの山を奪還するために日本軍は戦死者5千人、負傷者を合わせると合計1万6千人という犠牲者をだしました。
今でこそ木々が生い茂り、桜の名所として観光地になっていますが。当時は草木も枯れ果て歩いている道も岩肌の見える斜面も血に赤黒く染まり。氷点下の203高地はすべてが凍り付き折り重なった屍が岩のようになっていたことでしょう。
そう思うと背筋がゾク!としてきました。
砲台跡に着きました。
視界が一気に開けて、まっすぐ一直線上に旅順港が望めます。
ここから見ると、旅順港が天然の要塞と呼ばれる由縁がわかりますね。
本物?レプリカ?真偽のほどは無学でわかりませんが、大砲が備え付けられています。
こういう感じに狙って打ったのか~!とシュミレーションできます。
そこからもうしばらく登っていくと、山頂になります。
小さな小屋があり、中は土産物屋になっています。
よくあるお土産の品のなかに、当時の遺物と思われる弾丸や薬莢なども売られていました。書籍もたくさんありましたので、興味のある方は覗いてみてください。
山頂には、戦争で使われた機関銃や大砲の薬莢や残骸を鋳造して造られたという銃弾の形をした慰霊塔が建っています。
晴天に映える爾霊山と書かれた碑。
しかし、表面は落書きがびっしりと刻み込まれている…。どうやって刻んだ⁉というくらいに上の方まである。「や、やめてくれ~」と思わず声にしてしまいました(´;ω;`)ウッ…
下りは道が枝分かれしていたので、ウロウロしてみることにしました。
すると、木々や雑草に覆われながらも110年の時を超えて残る人工物がありました。
銃を撃つ穴と塹壕と指令所跡。
凍てつく草木も無いハゲ山に上から下からと雨のように降り注ぐ弾丸。身を守るためには敵味方かかわらず、塹壕にて身を隠しながら、ときには同志を弾除けにしながらとにかく前進あるのみ。塹壕は急斜面には小刻みにジグザグしており、緩やかな坂ではカーブしていました。
機関銃を撃つ台も、寝ころびながら撃つようになっているようです。
ひとつひとつ見て回りました。
あっという間の1時間の見学は終了。
待っていてもらったタクシー(よかった、ちゃんと待っていてくれた(^^ゞ)に乗り込んで帰路に着きました。
タクシーの車窓からの写真。
今は緑豊かなおだやかな丘陵地ですね。
地元民の間では、この203高地は中腹に広大な桜園があり、結構有名な名所のようです。
戦争でお亡くなりになった皆さんに哀悼の意を表したいと思います。合掌。
★その他、旅順の現在はどういう処?
レトロ住宅が今なお残る新市街の街をレポートしました。
★旅順の観光コースのひとつ。旅順博物館レポートです。